人気ブログランキング | 話題のタグを見る

フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也

「始まりは、トゥッティだ。」20年ほど前、私は緊張で体を固くしてピアノに向かっていた。横のもう一台のピアノにはイェルク・デームスがいて、片手を譜面台の上に乗せこちらを向いて早口でまくし立てている。

初老期で独身のノーブルなその巨人は、一緒に昼食をとっている初対面の私に「どうして私のレッスンを受けないのか?」と言ってきた。急なことではあったが意を決し、暗譜で弾けるK.457ハ短調のソナタを選んだ。マエストロに手渡した楽譜のそのページの一番上には彼のきれいな字で、Eine Symphonie と書かれてある。

K.576のソナタもまた私のお気に入りの曲で、冒頭はやはりトゥッティである。あのレッスンのことを思い出しながら、来たるべき対位法旋律を絡めるにふさわしい躍動感をもってこの動機に挑戦する。このソナタは作曲の時期、自作品目録、書簡などからプロシアのフリーデリケ王女のために作曲されたとされて来た。が、近年その難易度から察するに王女のための作品ではないのではないか、ということが言われている作品である。

フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也_d0083273_1392618.jpg

Friedrich I König von Preußen
**************Friedrich II König von Preuße
*************************** Friedrich Wilhelm I König von Preußen
****************************************** Friedrich Wilhelm II König von

初代の王、フリードリヒⅠ世(ブランデンブルク選帝侯Ⅲ世)(1657-1713)は「猫背フリッツ」とあだ名された風采の上がらない小柄な人物で、ルイ14世にあこがれる虚栄心の強い浪費家だったが、妻ゾフィー・シャルロッテの影響もあって学芸を振興させた。その王妃はフランス語が巧みな知性あふれる女性で、彼女のサロンには一流の芸術家や学者が集まりベルリンの知識階級は大いに活発になった。その息子フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世(1688-1740)は兵隊王といわれ無教養で粗暴で、国民生活の些事に至るまで干渉し文化人とも敵対した人物であった。王太子フリードリヒとも全くそりが合わず、「オペラ、喜劇など下らぬ楽しみには近づけるな」と教育係に命令を下し一切の芸術に親しむことを禁じたのであった。王太子は家出事件を起こした挙句、王に幽閉までされた。しかし母ゾフィー・ドロテーア(イギリス国王ジョージⅠ世の子)の隠れた援助もあり、密かに当時の名演奏家・作曲家クヴァンツにフルートを習い演奏会も開いていた。この王太子フリードリヒこそ後のフリードリヒⅡ世(1712-1786)、“大王”と称された名君である。その統治は46年の長きに及び、プロシアの強大化のみならず啓蒙主義的な改革を活発に始め、当時のベルリンは“北のアテネ”と呼ばれるようになった。1745年(先代没後5年)にサンスーシ宮殿を建設し、クヴァンツをはじめグラウン、ベンダ(Vn)、ニヒェルマンそしてC.P.E.バッハ(Cem Pf)といった超一流の音楽家を集めた。宮殿では月、金曜日にオペラがおこなわれ、それ以外の毎晩王主催の音楽会があった。1747年の大バッハの訪問が、音楽史上の輝かしいエピソードとなったのは周知のとおりである。フリードリヒⅡ世には子供が無く、アウグスト・ヴィルヘルムが王太弟であったが大王より先に世を去ったため、その息子フリードリヒ・ヴィルヘルム(1744-97)が王太子となり、1786年にフリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世(ヴィルヘルムⅡ世)として即位した。ヴィルヘルムⅡ世は王太子時の1765年最初の妻を娶りこの結婚で生まれた唯一の子がフリーデリケ王女(1767-1820)であった。彼はだらしない性格で女に甘く「でぶの女たらし」「肉の機械」などと国民に言われていた。反面、漁色家ではあったもののただの俗物ではなく、芸術にも一応の理解を示し、また熱心なチェリストでもあった。戦場にまで弦楽器奏者3人を連れて行き四重奏を演奏したという。1769年に再婚したが、幾人もの愛人もあり、結局16人の子供を儲けた。その長子がフリーデリケ王女というわけである。

モーツァルトの訪問

モーツァルトはリヒノフスキー侯爵と共に1789年4月26日、ベルリン近郊ポツダムにてヴィルヘルムⅡ世への謁見願いを出している。この書類の欄外にヴィルヘルムⅡ世は「監督デュポール」と記している。パリ生まれのデュポール(1741-1818)は1773年にプロイセン宮廷楽団首席チェリスト、大王の没年1786年には宮廷音楽総監督に任じられていた。モーツァルト一家も1763年末パリで彼に会っている。王より3才年長のチェロの名手、さぞや王の信頼も厚かったことだろう。モーツァルトは4月29日の日付で自作品目録に「デュポールのメヌエットによるクラヴィーア独奏のための六つの変奏曲」(1792年の初版にはさらに3つの変奏が追加されている)と記入している。デュポールに会う際、敬意の表明として献呈したのであろう。5月6日までのこのポツダム滞在についてのモーツァルトの記録は何も残っていない。その後ライプツィッヒに一旦引き返し演奏会などを行った後、再び北行し5月19日にベルリンに着いた。23日の手紙で「王妃陛下が火曜日(26日)に僕の演奏をお聴きになりたいとのこと...」と妻コンスタンツェに書いている。

ニッセンの伝記によると、「ヴィルヘルムⅡ世はモーツァルトがベルリンに留まるならば年俸3000ターラーを与えると言った。5月26日の御前演奏の際、王は6曲の弦楽四重奏曲と6曲のクラヴィーアの為のソナタを依頼された。」ということである。また、このことはモーツァルトのプーフベルクへの同年7月12日の書簡にも書かれている。「...フリーデリケ王女のためにやさしい6曲のクラヴィーアソナタと国王のために6曲の四重奏曲を書いています...」また自作品目録への記入も確かに6,7月にされている。



フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也_d0083273_13164029.jpg
ヴィルヘルムⅡ世がモーツァルトに少なからぬ興味を持っていたことは1792年にレクィエムの写しをコンスタンツェから100ドゥカーテンで買い取っていることからもまた窺える。(MUSICA MANUSCRIPTA Band 6 REQUIEM 1990/Bärenreiter)





フリーデリケ王女について

フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也_d0083273_13175458.jpg
1767年5月7日生まれ。父のヴィルヘルムⅡ世と王妃エリーザベト・クリスティーナは、2人の祖父母4人が全て同じという二重の従兄妹関係であった。結婚当初からの王の不誠実に王妃は仕返しとしてスキャンダルをぶちまけ、王女が生まれた頃にはそのことは有名になっていた。王はこのことを逆に利用し、王女の生まれた年に離婚した。母は現ポーランドのシュチェチンに移り住み従兄のアウグスト・ヴィルヘルム男爵の保護の元生涯を送った。王女と会うことは二度となかったという。(Alexander Palace Time Machine:Friedrich Wilhelm Ⅱ and a divorce)王女は24歳でイギリスのジョージⅢ世の次男フレデリック、ヨーク公と結婚し、ベルリンで1791年9月29日、バッキンガムで11月23日に式を挙げている。イギリスでは熱狂的な歓迎を受けた。二人にもまたジョージⅠ世という共通の祖先がいたのである。しかし幸せな時期は短く、程なく別居しロンドン郊外のWeybridge近くのOatlands Parkで余生をおくり1820年8月6日そこで亡くなった。子供は居なかった。

偉大なる大叔父フリードリヒⅡ世は王女19歳まで存命であり、薫陶を受けたことであろう。C.P.E.バッハは王女生誕の年にサンスーシを去っていたが、その著書“正しいクラヴィーア奏法試論(1753-62)”の息吹は当然宮廷内に感じられたであろうし、前述のように大王の下周囲には著名な音楽家が数多くいたのである。このことはヴィルヘルムⅡ世への返答としてモーツァルトが述べたベルリンの楽団評にもあるとおりである。モーツァルトが宮廷に来て演奏した時、王女はすでに22歳であった。当時としては“行き遅れ”の年齢である。音楽的にも、全ての面で最高の環境にありながら、何故22歳で未婚だったのか。外見的に恵まれなかったのか、もしかしたら血族結婚故の何か問題があったのだろうか。
フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也_d0083273_13205855.jpg


ヴィルヘルムⅡ世はモーツァルトと会った時、二番目の王妃との結婚生活すでに20年、亡くなった二人の子供を除いても6人(18,15,14,8,7,5歳)の子供達、愛妾エンケの子供も一人居た。が何故、王女フリーデリケのためにクラヴィーアソナタを依頼したのであろうか。クラヴィーアを弾く能力があったからこそではないだろうか。5月26日のシャルロッテンブルク宮殿での演奏の際、モーツァルトは王のチェロはもちろん聴いたであろうし、王女もクラヴィーアを弾いたと思われる。腕前を知らずして、いかなる曲が書けようか。モーツァルトは彼女の技量を知っていたと思われる。

作品について

この曲は左手のテクニックが要り跳躍も多くあり、ことに当時のpianoforteではミスタッチを多く招くだろう、が小さな手でも演奏可能なものである。(左手といえば、C.P.E.バッハは左利きであった。)しかし、難易度から言えばアウエルンハンマーとモーツァルトのための「二台のためのクラヴィーアソナタK.448」の方が難しくヴォリュームがある。言い換えると、私はこの曲はとかく話題にされるほど難しい曲だとは思わないのである。

おかしなもので、誰かが言い始めると流行り病のごとく皆がそういい始めるようである。一つの例として、アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618がある。誰が言い始めたのか知らないが、いろいろな本で「わずか45小節の...」と書かれている。が、それは間違いである。46小節あるのだ。数年前に直筆のファクシミリ版が出てそれを手に入れた時、嬉しくて思わず数え、数え直して、新全集(NMA)で確認した。NHK FMミュージックプラザの唐沢美智子さんだけが、一年程前の放送で『たった46小節の...』とおっしゃって、この人のモーツァルティアンぶりが分かりとても感動したことが想いだされる。



話が横道にそれたが、ロビンズ・ランドンもこの曲について「...演奏し易い、分かりやすい様式で、こうした様式でも素晴らしい腕前を揮えることを示している。...」と書いている。(モーツァルト・ゴールデン・イヤーズ:H.C. ロビンズ・ランドン、吉田泰輔訳/中央公論社)



もう一つ思うことは自作品目録の右ページに書かれている曲の冒頭部分の書き方である。ファクシミリ版のf.22 (W.A.Mozart:Eigenhändiges Werkverzeichnis, Faksimile: BRITISH LIBRARY,Bärenreiter)に上下並んで書かれている“プロシア王のために”、とある6月の弦楽四重奏曲と次の7月の“クラヴィーア単独のソナタ”(特に3小節目からのスラーの部分)。モーツァルトの楽譜の筆の流れとでも言おうかペンの運びが似ているのである。同じニ長調ということのみならず、冒頭の曲の動き、骨格も似ている。と思うのは私だけだろうか?



プロシア王セットの一番K.575の、直筆譜(W.A.MOZART: The Late Chamber Works for Strings: THE BRITISH LIBRARY 1987)の方を見ると、冒頭よりモーツァルトの苦労が見て取れる。ヴィオラとチェロを書き直して入れ替え、満を持してチェロにメロディーを与えている。その上、この1ページ10段組という四重奏曲には不向きな紙は、モーツァルトがウィーンに戻る途中、ドレスデンかプラハで5月30日から6月2日の間に手に入れたボヘミアのSiebert製のものである。つまり帰路上で既に作曲は始まっていたのである。(Alan Tyson: Mozart Studies of the Autograph Scores: HARVERD 1987)もし次のピアノソナタ(K.576) が“フリーデリケ王女のための作品”だとすれば、この王のための弦楽四重奏曲(K.575)へのモーツァルトの意欲は、“次の作品”に似た傾向を与えるかも知れない。

ヨーク公夫人となった後のフリーデリケ
彼女の人柄や容姿を偲ばせる資料があった。(the Peerage.com)

『1791年、Malmesbury卿がCoblenzよりPortland 侯爵宛に、次のように書き送っている。

「彼女は見目麗しいというには程遠いのですが、活発で分別がありとても従順です。もし、この公爵夫妻のお互い相手に対して抱いている愛情の十分の一もあれば、素晴らしい家庭を作るのに充分だといえるでしょう。」また、Grevilleは次のように言っている。「彼女は賢く、豊富な知識を持っています。彼女は人と交わるのが好きで、形式ばったことや儀礼的なことが嫌いです。しかし、ごく親しい人との交際においても常にある種の威厳ある礼儀正しい態度を崩しませんでした...彼女のような地位に居る人で、彼女ほど心から人々に愛された人は居ないでしょう。」

また、このようにも言われている。「公爵夫人は無邪気で、人並みはずれて小柄な方でした。猫と犬をこよなく愛され、親族関係の礼節に関しては、ドイツ風の厳しさを御示しになりました。このことにより彼女の家庭はいかにもポツダムの家庭らしい雰囲気が漂っていました。そして、若い兵士であり王子でもある彼女の夫の気持ちをひきつける魅力の一端ものぞかせていました。」』

また、Oatlands Park Hotel の歴史ページの中で次のように紹介されている。

『...ヨーク公夫人は静かな方で、貧困者への慈善事業や、ハイドンや“洒落者ブランメル”といったいろいろな友人を歓待して日々を過ごしていた。彼女は動物を愛し、いつも数多くのペットに取り囲まれていて、彼女の犬達の共同墓地の墓石がラウンジバーの中庭近くの芝生の中にあるのが見える。彼女はその土地の人々に大変人気があったので、彼女の死に際し、思い出のための記念碑がWeybridge Monument Hill の下Ship Innの外に建てられたのであった。』

MONUMENT FOR HER MEMORY

フリーデリケ王女はピアノソナタK.576が弾けたか?/西村 真也_d0083273_1325985.jpg

容姿、体格そして人柄について、想像していたことと何か通じるものがあるような気がした。遅かった結婚までの間、母不在の、しかし恵まれた環境の中でピアノを弾いていたのではないだろうか。きっと弾いていたに違いない……。

私は、次の文章を読んだとき、思わず、アントン・ヘルツォークの書いたヴァルゼック伯爵についての文章が1962年オットー・シュナイダーに発見された時、いかに大きな意味をもたらしたか、ということを連想してしまった。

「…またハイドンは、1791年11月に後のジョージⅣ世となるPrince of Wales から、彼の弟であるヨーク公のOatlandsにある別荘に招かれたことを書いている。このことはこの作曲家と王家の人々との親しい関係の始まりとなった。Maria Anna von Genzingerへの手紙で、ハイドンは彼自身と彼の音楽が注目されたことについて熱い調子で顛末を語っている。プロシア王の令嬢であったヨーク公妃は、...

世の中でもっとも愛嬌のあるご婦人で非常に教養があり、大変上手にピアノを弾き、歌われます、...彼女は音楽が始まった午後10時から午前2時までずっと私の傍につきっきりでした、...私がピアノで交響曲を弾くとその小柄でチャーミングな方は私の左側に座り、全ての曲を暗譜でハミングされたのです、というのは彼女はベルリンで何度もそれらを聴いていたからなのです。...」(Gordon,D./P.Gordon:Musical Visitors to Britain/Taylor & Francis 2005)The Collected Correspondence And London Notebooks Of Joseph Haydn (1959) : H. C. Robbins Landon)


この文章は、名古屋モーツァルト協会誌、および短縮版はレコード芸術4月号に掲載しております。
西村 真也(松山モーツァルト会、楽友協会えひめ)

by gakuyuuehime | 2008-03-26 13:33 | 国内楽信

 

<< 山本裕康チェロ・リサイタルを聞いて 病院でのチェロ・コンサート >>